◆先日、カジュアル衣料店「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングという会社が、2012年3月から社内の公用語を英語にするという方針を発表しました。日本だけでなく地球的な規模で商売をするためには、どうしても「英語」が必要であるとの判断によるものです。具体的には、社内での会議や文書は基本的に英語を使い、社員は、TOEIC(国際英語能力テスト)で700点以上の英語力が求められます。

◆英語を使う会社の 登場はつい最近のことではありません。1950年に東京の下町墨田区に誕生して、今や世界を相手に商売をしているスミダコーポレーションというか会社は、2002年に「英語を共通語」にして世界17国36営業所に2万人の職員が働いています。社員は互いの名前をニックネームで呼び合っているそうです。役員10人のうち5人が外国人です。最初は「大変な時代になったものだ!」と社員も(君たちも)思ったでしょうが、世界的な規模で人や物が交流するグローバルな時代には必要なことなのかもしれません。

◆君たちに身近な「大学」もグローバル化しています。例えば、大分県の別府にある立命館アジア太平洋大学(APU)という大学は、2000年に創立された大学です。先日、ティエラの先生たちも見学に行ってきました。見学した先生たちの感想は、「素晴らしい大学だ。これからの教育のあり方を考えさせられた」「おしゃべりな学生たちが印象的でした」です。APなの学生はどうしておしゃべりなのか。

◆APUでは世界97国の留学生が学んでいます。主にアジア20か国、中国、アフリカ、オセアニアや南米諸国などの学生が半分。日本国内の学生が半分。英語や日本語やスペイン語や中国語、まさに多国籍大学です。肌の色も文化も言葉も習慣も違う人たちが、ごっちゃまぜに毎日生活を共にする環境の中、恥ずかしがったりしてはダメ。積極的に会話を重ねないといけません。物おじしないで会話する。おしゃべりは積極性の表れなのですね。

◆秋田県には国際教養大学(AIU)という大学が2004年にできました。これからの時代は国際教養が必要という大学創立の考え方も面白いです。こちらは22か国の留学生を受けて入れ、すべての授業が英語で行われ一年間の留学が必修となっています。まさに「英語で学ぶ」大学です。

◆そうそう。「農業」や「サービス」もグローバル化の波が押し寄せています。「日本は世界5位の農業大国」という本を読みましたが、その中にはその事例がいくつも紹介されています。「日本の農作物は世界一です」と語る、和郷園という農業組合の代表者である木内さんは、タイでマンゴーやバナナを作り始めました。また、アメリカに渡った田牧さんは「タマキ・ライス」をアメリカに知らしめた人です。日本の優れた工業製品が世界中に広まり「Made in Japan」(日本製)として日本の信頼を高めたように、これからは日本人の手によって作られた農作物が、「Made by Japanese」(日本人産)として世界に信頼を得るのかもしれません。

◆石川県の老舗旅館「加賀屋」は、日本の「おもてなし」のサービスを台湾に設立するホテルに取り入れて世界に進出しようとしています。君たちが知っている宅急便の会社ヤマト運輸や、化粧品の資生堂も、中国で「日本流の決め細やかなサービス」を展開しようとしています。日本の知恵が果たして世界で通用するか、これから先も目が離せません。できれば、地球に暮らす一員として世界の国とつながり、日本人が日本の持ち味を発揮して人類の幸せに貢献したいですね。

◆「鬼に金棒」ということわざがあります。それを手に入れることによって、強いものがますます強くなることを例えた言葉ですが、グローバルな時代には「鬼に金棒」が必要かもしれません。鬼が「君たち」だとすれば、「英語」は金棒です。君たちにとって得意な日本語のほかに「英語」を身につける。英語でなくても中国語でもスペイン語でもかまわない。それは語学でなくても、パソコンの操作技術でも何でもよいのです。つまり、得意なことをもう一つ持つことが必要な時代なのかもしれません。

◆グローバルな時代に必要な力として次のようなことが思い浮かびます。
<1.学力 2.語学力 3.恥ずかしがらないで人前で自分の考えを話す力 4.リーダーシップ力 5.コミュニケーション力 6.精神的、肉体的なタフさ 7.健康 8.日本についての豊富な知識 9.自分を大切にして他者を敬う力>
将来、世界を駆け回る君たちには二つのことが求められています。まず、自分自身が強い人間(鬼)になること、そして人生を切り拓く味方となる技術(金棒)を身につけること。これこそが本物の「鬼に金棒」です。

いよいよ大切な夏休みがやってきました。
それぞれが大きな目標を掲げ、様々な学習計画を立てていることでしょう。

君たちは夏期講習会や夏合宿に参加することで何を目指しているのでしょうか。
例えば、「自分の」成績を上げるため、「自分が」志望校に合格する力をつけるため、「自分が」精神的にも肉体的にも一回り大きく成長するため、などがあるでしょうか。

確かに、君たちは誰のためでもなく、「自分のため」に、「自分の未来のため」にと思って、色々なことに挑戦し、日々がんばっているのでしょう。しかし、君たちがまっすぐな気持ちでがんばる姿は、もっと大きな力を持っています。

君たちが良い成績を取ったり、志望校合格を勝ち取ったりしてくれたとき、確かに先生たちはうれしく思います。でもそれは、成績を上げたい、合格したい、そんな強い思いを持ってひたむきにがんばっている姿を見ていたからこそ湧いてくる喜びです。たいして努力もしていないのに、単に成績だけ良くても、先生たちは何も感動しません。

君たちの家族も同じ気持ちだと思います。
今、君たちの家族を頭の中に思い浮かべてみてください。どんな顔が思い浮かびましたか。怒っている顔ですか。悲しんでいる顔ですか。どうせなら幸せな笑顔でいてもらいたいですね。君たちが嫌な勉強から逃げ出さずに、熱心に宿題に取り組んでいる姿は、身近な家族の人にも大きな感動を与えます。

君たちが趣味や娯楽に目もくれず、ひたすら机に立ち向かっている姿を家族が見れば、どんなに辛いことがあったとしても、家族は、幸せな気持ちの中にいることができます。君たちのがんばりは、そんな大きな力を秘めているのです。少なくとも先生たちは、君たちが時間をかけ苦労して作り上げてくれたノートを見るだけで、幸せな気持ちになることができます。

大切な夏休み。
夏期講習会の期間中は、勉強に全身全霊を傾けている姿を家族に見てもらいましょう。夏の合宿から帰ってきた時には、大きくたくましくなった姿を見てもらいましょう。いつも君たちの身近にいて、応援してくれる大切な家族や友人たちに、幸せな気持ちになってもらう、そんな小さな「幸せの輪」を、この夏、君たち一人ひとりが広げていってくれればうれしく思います。

【鶏口牛後 〜鶏口となるも牛後となることなかれ〜】

<意味>大きな集団の尻についているより小さな集団のトップになったほうが良い。
鶏口→鶏の口;鶏は小さいことのたとえであり、口は先頭(トップ)のこと
牛後→牛の尻尾;牛は大きいことのたとえであり、後は後方(ビリ)のこと

今日は鶏口牛後をいう言葉の意味を知った上で、『この時期、鶏口牛後になるな!』です。
※この時期;夏(講習会や合宿)を目前に控えたこの瞬間。

鶏口牛後を「受験」に置き換えてみると・・・

「たとえ第一志望校(牛)に合格して、下位(後)でついていくより、第二志望校(鶏)で上位(口)をとったほうが良い。」ということになりますね。

これをこの時期に考えてはいけないということ。
まず大前提として、自分が行きたい中学・高校が第一志望校であるということを忘れてはいけません。しかし、今の学力(中3生ならⅠ期の通知表がでるこの時期)を自分で勝手に判断して、いけそうな高校(合格できそうな高校)がいつのまにか第一志望校にしていませんか?本当にそこが第一志望校ですか?と問いたい。

次に、中学・高校に合格してそこでついていけるかどうかは、これからの自分の行動で決まるということ。
次のステップに上がる前に、必ず時間ができる。その時間を有効活用した人が高校でも上位でがんばれる人。世間一般的に言われるのが『高校1年生の春が受験の天王山』。
もちろん、中学受験終了時も。

また、この夏を前にしたこの時期に、受験校のランクを下げるのは自分の可能性を否定しているということ。受験生にとってはこの夏は最大の山場であり正念場。ここでの取り組み方で、秋以降の学力アップは変わってきます。この夏に「勉強体力」と「勉強の仕方(基本フォーム)」を再度身につけることが重要です。

それと第二志望校で本当にトップになれる子は、最後まで第一志望校を目指した人だけ。努力をし続けた人だけ。です。

最後に、この夏はスタートしたばかり。自分の可能性を信じ、最大限の努力をしてください。必ずこの夏の努力は君たちの力となります。

家の前などで、コンクリートから雑草が生えてきているのをよく見かけます。

硬いコンクリートを突破して生えてきたのですが、微力でもじっくり時間をかけるからこそ、雑草はコンクリートを突き破ることが出来るのです。

微力こそ、遠くまで行く秘訣です。

100cmずつ進む人は挫折します。
1cmずつ進む人は成し遂げます。

大切なのはスピードではありません。
ゆっくりと進む“歩み続ける”ことが大切です。
「止」まるのが「少」と書いて「歩」むです。

南アフリカでのワールドカップも、いよいよ終盤。残念ながら、ベスト16に終わった日本チームも、素晴らしいチームワークを世界に見せて大健闘でした。日本が唯一敗れたオランダの話をします。

 オランダには、ある伝説的な選手がいます。名前はヨハン・クライフと言います。彼は現役時代、「クライフターン」と呼ばれる独自のフェイントで相手チームを翻弄し、ジャンピングボレーシュートを見事に決めたりして「空飛ぶオランダ人」というニックネームでたくさんの活躍をしたサッカー選手です。世界最高峰のサッカー選手として「BIG4」と呼ばれる選手の中の一人です。(ペレ、ベッケンバウアー、クライフ、マラドーナ)

 クライフ選手は、バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)という年に一度選ばれる世界最高選手に三度も選ばれたり、ワールドカップにオランダ代表として出場したりしました。地位や名誉をほしいままにしました。しかし、彼がサッカーの中で唯一手に入れる事ができなかったものがあります。それは『ワールドカップ』です。彼は、ワールドカップで優勝できませんでした。彼は当時のオランダ代表にこう言っていました。
 『美しく敗れる事を恥と思うな。無様(ぶざま)に勝つ事を恥と思え。』

 君たちに伝えたい事があります。クライフ選手は、勝つ事にこだわるのでなく、美しさにこだわりました。しかし、先生はこう思います。どんなに優れていても、勝ちにこだわる者にしか勝利はないという事です。目指す過程はどんなに泥くさくてもいい。どんなに挫折(ざせつ)してもいい。でもどんなに優れていても最後まで自分の目標を貫き通し、諦めずにチャレンジして目標を必ず勝ち取る事にこだわる人になってほしいと思います。

世界中がワールドカップに注目する中、日本対デンマーク戦では、夜中に起きて本田選手のゴールを見ました。得意の無回転のシュートが見事に決まって先取点。3点目はもっとすごかったですね。ゴール直前で、自分でシュートできたにもかかわらず、となりの岡崎選手にパス、岡崎選手もえらいよね。これを見事にゴール。「こんな日本チームは見たことない!」、素晴らしい活躍でした。

 本田選手の試合後のインタビューもかっこいい。
「もっといけると思っていたから満足していない」というのも「プロ」を感じさせるすごい言葉でしたね。

 小学生の頃、おじさんに「練習の後に記録しないとうまくはならないよ」と言われた本田選手は、それ以来ずっと「練習日誌」を書き続けたそうです。「今日の練習でよかったこと」や「課題となるところ」「がんばったところ」「コーチに注意されたこと」など、欠かさず記録したそうです。こういう話は、本田選手以外にも聞いたことありますよね。たぶん、大リーグのイチロー選手もそうだったと思います。

 私たちは、毎日色々なことを思って生活しています。瞬間、瞬間に。「あの花はきれいだ」とか「明日の日曜日は、どこに行こうかな」とか。でも、思うことはできても、「考える」ことが苦手だなあと思っている人は少なくありません。その証拠に「最近の学生は考えることがうまくできない学生が多い」となげいている大学の先生も少なくないからです。

 そこで提案です。考えることが苦手な人は、まず書いてみることです。「思った」ことを「書いてみる」。はじめは「メモ」でもよいのです。箇条書きに思った事を書いてみる。そして、さらに文章にして「書く」ことをする。「書き始める」と「思う」が「考える」に変わります。つまり、「書く」ということは「きちんと思う」ことなのです。本田選手はこのことを長い間続けたのです。

 大人も子どもも、多くの人は、この「きちんと」ができないでいます。
 今日は、「書く」という行為が、君たちが思っている以上に、「威力」のあることだということを書きたかったのです。だから、書いて、書いて、書きまくれ!!

先週の日曜日、私が住んでいる町内会の廃品回収がありました。たくさんの廃品が回収場所に集められ、私はその仕分けをする係りだったのですが、「なんでこんな物が?」という物が置かれていました。
それは、使い終わったノートでした。

 十二、三冊のノートが紐にしばられた状態で置かれていたのです。思わず手にとって見ると、表紙に書いてあったであろう名前は消されていましたが、教科名などはそのまま残されている状態でした。紐でしばってあったので、中を見ることはできませんでしたが、外見から判断するとそれなりに使い込まれたノートのようでした。時期的に前の学年のノートを処分したといったところでしょうか。私はすごく悲しい気持ちになりました。

 ノートと言えば、忘れられない生徒がいます。
 すごく真面目で熱心な女子生徒で、志望校は地域のトップ校でした。学校の成績でもティエラの模試などでも、まず合格は間違いないだろうという生徒でした。そんな生徒だったのですが、さすがに入試本番の二・三日前は極度に緊張し、なかなか勉強が手につかず、どうしたらいいか相談されたりもしました。

 ところが、入試前日の最終授業での姿は二・三日前とは見違えるようで、すごく自信に溢れていました。不思議に思って理由を聞いてみると、ある事によって、すごく自信と勇気を持てたということでした。

 その生徒は中一の春にティエラに入り、三年間一生懸命ティエラで勉強してきました。そして、ティエラで使った数十冊のノートを三年間きちんと置いていました。不安で仕方なかった入試直前に、その生徒はその百冊近いノートを一冊ずつ、自分の部屋の床の上に丁寧に積み上げていきました。中一の最初の頃のノートはまだまだ勉強のやり方が充分身に付いてなかった事をあらわすかのように、買ったときよりも少し膨らんでいるぐらいだったけど、学期や学年が進んでいくとノートはどんどん分厚くなっていきました。

 中三の二学期からの「公立模試用のノート」なんて、問題用紙も解答用紙も解説プリントも全部ノートに貼ったので、倍以上に膨らんでいました。
 「百戦錬磨のノート」もかなり…。最初はそんなに高くなるとは思わなかったのに、積み上げるのに苦労するぐらいの高さになりました。最後の一冊を一番上に置いた時に見えたもの、それは、自分の身長と同じくらいの高さのノートでした。勇気が湧いてきました。
 「自分は三年間、これだけの努力をしてきたんだ。自信を持って、入試に臨もう!」と。

 その生徒は見事にトップ校に合格し、三年後の大学入試においても第一志望校に合格しました。
きっと東進での三年間でも自信と勇気をくれるノートを作り続けることができたのだと思います。

 みなさんはどうですか? ノートを大切にしていますか?
 ノートはあなたに自信と勇気をくれますか?

最近、痛切に感じることがあります。
それは「言葉が届かない」ってことです。

毎週の「朝礼や終礼」、さらには「授業中」に、先生たちはどんなことを考えながら皆さんに向かって話をしていると思いますか。
「今日はどんな話をしようかな。」「どうやったら、皆に伝わるかな。」
貴重な時間を割いて話をするわけですから、事前の準備は絶対に怠りません。時と場合によれば、1週間も、さらには1ヶ月も前から、その日、君たちに伝えたいことを必死に考えている時だってあります。ゼミのない日でも、街中でふっと見かけた光景に感じたことを、「よし!次のゼミで話すぞ!」なんて、四六時中、話題を探しているくらいです。

いざ話をしているときは「伝えたい」「届けたい」という気持ちが、あれこれ言葉を生み出してくれる。むしろ、先生たちが考えていることはたったひとつ。「誰が、一生懸命聞いていて、誰が聞いている“ふり”をしているのかな」ということが頭を過ぎります。

普段はどちらかと言うと、朝礼や終礼、授業など、「集団の中のひとり」として話を聞く場面が圧倒的に多いですよね。しかし、どんな時も先生たちは「ひとりひとり」に伝えたいと思って話をしています。しかし、聞く側からすれば「自分には関係ない」と思っている、いや、意識して「聞こう」としない人が増えているのかな、と思えてなりません。

「KY(空気を読めない)」という言葉をよく耳にします。
この言葉が流行りだしたのも、必然的のように感じています。つまりは「相手が何を言おうとしているのか」を理解しよう、つかもうとしない人が増えてきた。理解デキナイというよりも、理解シヨウとしない姿勢が、周囲の状況を読み取れない、相手の心を読み取れない状況を生み、その結果、空気を読めない人が増えてきたのかもしれません。

「以心伝心」という言葉があります。「考えていることが、言葉を使わないでも互いにわかること」「言わぬが花」「みなまで言うな」「行間を読む」など、様々な表現で言い換えられますが、これは日本が昔から大切にしてきたひとつの「文化」です。

学生時代は、教科学習とテストの点数で、「頭のいい人」といった優劣がつけられがちです。しかし、大人になればこの「空気を読む力」もあわせて求められます。思いやりのある人、周囲からの信頼を勝ち取れる人というのは、総じて空気が読める人です。

「ティエラ」には「空気の教育」という言葉があります。
ティエラのゼミは、単に教科学習をするだけではなく、この「空気を読む力」養う“特別な”場所です。校舎に入ってから、出るまで、全てが勉強なのです。
朝礼や終礼、授業中、テスト中、更には、休み時間や先生や友達と話をしている時、面談しているときや先生からの激励電話まで、ゼミには、皆さんが「成長」するためのチャンス、きっかけがたくさんあります。

まずは、次回のゼミから常に「先生は、どんなメッセージを伝えたいのだろう?」と、意識してみてください。
きっと、今までとは違った収穫があるはずです。何より、「空気の読める人」に、一歩近づくはずです。

「蚤」(のみ)という漢字は、「かきたくなるかゆい虫」という意味があるそうです。
なんだか名前を聞いただけでもかゆくなりそうですね。

ウィキペディアには「節足動物門昆虫網ノミ科に属する外部寄生昆虫」とあります。
「寄生昆虫」、つまり、自分で生活しないで人間や犬や猫、鳥などの体表に寄生して、その血をすって生活している昆虫なんだ。

今ふうに言えば、「パラサイト」、日本風に言えば「居候」(いそうろう)だ。二酸化炭素を感知して寄生する主人をさがして、そこにこっそりとすみつく。寄生主が死んだら別の主人を探して移動する。体長が0.9ミリ以下という小さなノミの、なんとも、しぶとい生き方がほほえましくもあります。

人間に寄生する昆虫として「のみ」と同じくらい有名なものに「しらみ」がいます。今はどちらも日常の話題に登場しなくなりましたが、「のみとしらみ」ほど、昔から人間に親しいものはありません。衛生状態が今よりも悪い時代は、日常の身近なところに「のみとしらみ」がいました。それでも、このふたり(?)は、人間にとってはずいぶんと違う印象で見られています。

しらみは「柔らかく、しめりがちで鈍い動きで、陰性」、のみは「固く、元気に飛び跳ねて、陽性」といった感じでしょうか。だから、人間に受けが良いのは「のみ」のほうです。そういえば、「のみの夫婦」とか「のみの心臓」とかいった言葉もあります。「のみの市」「のみのサーカス」というのもあります。

20世紀の初めまで「のみのサーカス」は実際にあって、人前で芸をするノミがいたそうです。
円錐の紙をのみにかぶせて、跳ねるのみがそれを動かして、観客にはのみが踊っているように見えるのだそうです。

また、こんな話もあります。のみをガラスの容器の中にいれふたをする、するとのみはジャンプする。何度も何度もジャンプするが、ふたを超えた高さまでは飛べない。やがて、ふたをとっても、のみはふたのところまでしか飛べなくなってしまう。「自分はこの高さまでしか飛べない」と思って(?)しまうのだそうだ。

教訓。
「人間ものみのサーカスのように、自分はこの程度だと決めつけてはいけない」
「人間は、自分で自分の限界を決めてしまったらそこで成長は止まる」

君たちの中にも、「自分はこの程度だ」と、自分で勝手にきめつけて、努力することをあきらめてしまった人はいませんか。

のみしらみ 馬の尿する 枕もと(芭蕉)
よい日やら のみが跳ねるぞ 踊るぞや(一茶)

「2010年の合格体験記」ができました。目標に向けて努力を続けた君たちの先輩たちの声です。だから、表紙に「TIERRA‘S VOICE」(ティエラの声)という名前をつけました。中には、体験した者にしか表現できない力強い宝石のような言葉が満ちています。「受験」という困難な時間の中を不屈の闘志を持って駆け抜けた先輩たちの声に、ぜひ、耳を済ませてみてください。これからの君たちに、大きなヒントと勇気を与えてくれるはずです。

先輩たちの声を拾っていくと、受験を勝ち抜いた先輩たちに共通していることが二つあることに気づきます。一つは、目標を早く決めること。そして、もう一つは、受験勉強を早くスタートすること。これだけです。な〜んだ、そんなことかと思う人もいるかもしれませんね。でも、このことがなかなかできないのです。

受験合宿での先生たちの言葉に元気をもらって奮起した先輩たちは少なくありませんが、去年、飯綱高原で行われた高校受験準備合宿で土井先生は、中学1・2年生に「受験はピストルの鳴らないマラソンのようだ」と語りかけました。志望校を早く決め、受験勉強をスタートさせることの大切さを最終日に話しかけたのです。受験は、運動会の百メートル競走のように、「そろそろ受験ですよ〜」「みんな位置についてください」「よ〜い、ドン」と、全員によびかけ、スタートの合図のピストルを鳴らしてはくれません。受験のスタートのピストルを鳴らすのはだれか。それは自分しかいません。

受験では、早い時期に心に決めた「意中の中学」、「意中の高校」、つまり、第一志望校が決まっていなければなりません。「大学受験は高一の春が天王山」という言葉も、そのことの大切さを表現した言葉です。そろそろ夏。ここにも有名な言葉があります。「夏を制する者が受験を制する」です。長い夏休みをきちんと計画的に充実させた者が「受験」を制することができるのです。

竹はしなやかで強い植物です。
大きくなるにつれて、たくさんの「節」をつくって成長していくからです。
一つ一つの節目が竹を強くしています。
人間も竹と同じように「節」をつくって成長していくのではないでしょうか。

その証拠に「節目」ということばがあります。物事の区切りの事を言います。
小学生の時代、中学生の時代、 高校生の時代、大学生の時代、社会人の時代、壮年期の時代、 老年期の時代。その区切られた時間の中で一つの事を成し遂げて 「節目」をつくり、次へと大きく成長していくのです。