ある休日に、親戚のおじさんと2人でお昼ご飯を食べる機会がありました。親戚のおじさんは「お蕎麦が食べたい」ということで先生が知っている蕎麦がおいしいお店を紹介することにして、お店に向かいました。が、なんと定休日。下調べをしなかった先生が悪いですね。おじさんに謝ると、「近くにもう1店舗、おいしい店があるからそっちに行こう」と今度はおじさんの案内でそちらに移動しました。とてもおいしいお蕎麦を無事に食べることができました。紹介するつもりだったのに、逆に紹介された形になってしまいました。

おじさんはものすごくお蕎麦が好きで、きっとたくさんの名店を知っているのだと思います。(もしかすると先生が紹介したい店も知っていたのかも・・。)お蕎麦屋は意外と急な定休日もあるようで、最初の店が定休日でもおじさんはまったく動じていませんでした。パニックになっている先生と違い、すぐに落ち着いて次の店のことを考えていたようです。

「機転がきく」、とは「臨機応変な対応ができる」という意味です。

どんな状況でも臨機応変な対応ができる、ということは、そのことを日頃から意識して行動しているからできるのだと思います。もちろん好きなことに関してはみなさんもできると思います。

勉強に置き換えるとどうでしょうか?苦手な科目の授業で急に先生にあてられたり、急に想定外の問題に出会ったときにみなさんは機転をきかせられますか?機転とは、「たくさんの経験値」、「たくさんの練習量」、「たくさんのイメージトレーニング」から身につくものだと思います。先生は臨機応変が苦手なので、何が起きても冷静に考えることができる人をあこがれます。みなさんもたくさんの宿題やテストを乗り切った先に、どんな問題でも冷静に解ける人になってみたいと思いませんか?

さて、機転がきく人を目指して、今日もいろんな問題に触れていきましょう!

「人間は考える葦である」とは、フランスの有名な哲学者・パスカルの言葉です。葦というのは水辺に育つ、弱く細い草のような植物のことで、パスカルは著書の中で「人間は自然の中では葦のように弱い存在である。しかし、人間は頭を使って考えることができる。考える事こそ人間に与えられた偉大な力である」ということを述べています。

学習をしていると、わからない問題に直面することが多々あると思います。そんなとき皆さんはどうしますか?

「解答解説を読む」「もう一度考え直す」「先生に質問する」「あきらめる」。いろいろな選択肢がありますが、どれが正解というわけではありません。しかし、わからないことが出てきたら「何でもかんでもすぐ質問して解決する」というのも考え物です。確かに質問によって疑問が短時間で解決でき、そのぶん練習をたくさんすることができるようになるというメリットがあります。と同時に、自分ではそれほど頭を使わないため、「自ら考えて解決方法を見つける」ということをしなくなる危険性があるのです。

今の世の中にはAI(人工知能)を搭載したロボットが登場し、いろいろな状況をAIが自ら判断して動くことができるようになってきています。しかし昔のロボットは今のものとは違い、人間によって与えられた命令しかこなすことができなかったのです。考えることをしない人は、他人の命令によってしか動かないロボットのような人、つまり「ロボット人間」ということになるでしょうか。何も考えずに他人や機械の言いなりになれば、もはやそこに「自分」は存在しません。脳みそ(=思考)が無くても動くことができるので、そういう人はもはや自分ではなく「他人」なのです。もし人類の大半がロボット人間になってしまえば、「考えるAI」によって「ロボット人間」が支配される世の中になってしまうかもしれませんよ?

パスカルが言うように、人間は自ら「考える」ことができます。せっかく与えられたその力を無駄にせず、まず自分の頭で考えてみるようにしてください。もちろん、自分の考えた答が正しいかどうかもわかりませんし、思考には時間も労力もかかります。でも、自ら考えて出した答こそが「自分そのもの」なのですから、自分が自分らしくあるためにも「考える」ことを大切にしてほしいと思います。

みなさんはマスクをつけて過ごすのは嫌いですか?

もちろん、今の社会はマスクをつけるのが当たり前なので、好きとか嫌いとかいうわがままは通じません。皮膚が傷むから嫌だとか、呼吸が苦しくなるとか、どちらかというとマスクをつけることが嫌だ、という人が昨年あたりは多かったように感じます。私もマスクを着けていることが苦手です。

しかし、最近では「相手に表情を悟られないから、むしろ便利」「もう着けているのが当たり前になってきたから、むしろ外した時に違和感がある」という人も多いようです。

そのような状況の中、少し気になることがあります。まだコミュニケーションをはじめて間もない幼稚園児や小学生の低学年の子どもたちが、マスクに頼り、自分の感情を隠すことがコミュニケーションの基礎になってしまう恐れがあることです。小さな子どもだけでなく、中学生、高校生、大人の社会においても同じかもしれません。

だからこそ、改めて意識すべきことがあると思います。それは、【話しているとき、話を聴くときは相手の「目」を見る】ということです。当たり前のことですが、これ程、このことが大切である時期が歴史上あったでしょうか。これ程、「目」がものを言う時代はあったでしょうか。

先生は今日、君たち一人一人の目を見て、君たちが今日いったいどんな気持ちでゼミに出席し、何を考えているのだろうと、一生懸命感じ取ろうと努力しながら話しています。こんな時期だからこそ、君たちも先生の目をしっかり見て、家族や友達の目をしっかり見て、伝えることをしていきませんか。考えようによっては、この時期に相手の目を見ただけで、相手の感情をしっかりと汲み取ることや、相手の目をしっかり見て話す力が身につくと思いませんか。

先生たちは、今日のゼミでもしっかりと君たちの目を見て話す姿勢にこだわります。合格や点数にばかりとらわれるのではなく、一人前の人間としての土台を磨くのが、ティエラのゼミという場だからです。

今日も頑張りましょう。

今日は『エッセンシャル思考 最小の時間で成果を最大にする』という本を紹介します。エッセンシャル(essential)とは、「欠くことのできない、非常に重要な、本質的な」という意味の言葉です。英検準2級くらいのレベルの単語ですね。

著者のグレックさんはアメリカのシリコンバレーにあるTHIS Incという会社のCEO(最高経営責任者)で、AppleやGoogleなどの名だたる企業のコンサルタント(経営者にアドバイスをする仕事)を務めている人です。

エッセンシャル思考は「普通の人が、すごい人に勝つ手段」として、海外ではかなりの知名度を持っている言葉です。簡単に説明すると、「自分がやりたいことを実現するために、何をやめるかを見極めて、やると決めたこと以外はやらない。」という考え方のことです。すぐに集中力が途切れて課題がなかなか進まない人や、何とかして結果を出したい人には、この思考が役に立つと思います。

・やらなくてはならない
・どれも大切だ
・全てをこなすためにはどうしたらいいか

日本にはこういう思考の人が多いように思います。たくさんの「やらなければならないこと」に囲まれ、全部やろうとがんばるけれど、結局どれも中途半端になっていませんか?これらは「非エッセンシャル思考」と呼ばれます。

「エッセンシャル思考」では、この世の中にある多くものはムダであると考えます。自分にとって本当に大切なことは少ないので、ムダなことを捨て、今、重要なことに力を注ぐのです。結果を出す人は、やることを絞ることで成果を出しています。捨てるかどうかを悩んでいません。そういう人たちにとっては、「捨てることは当然」なのです。「より少なく、しかしより良く」を実践しています。

かといって、何でもかんでも捨ててOK!ということではありません。それはただのワガママです…。そうならないためには、常に何が重要なのか考え続ける(本質を見る見抜く)習慣を身につける必要があります。まずは「早く小さく」始めて、捨てたことを後悔せず、失敗したとしてもいちいち挫折せず、すぐに次の挑戦に向かうことができれば、結果は必ずついてきますよ。

みなさんは大切にしているものはありますか?思い出のある物、宝物、家族、お友だち・・・など色々ありますね。今回、先生からは『自分を大切にする』話をしたいと思います。

『自分を大切にする』だから

◆挨拶なんて面倒くさいからしないでおこう!
◆バスや電車で椅子に座ると楽だから、お年寄りがいても知らんぷり!
◆みんなで遊ぶとき、順番にするのイヤだから全部自分でひとりじめ!
◆遊ぶの大好きだから勉強や宿題はやらずに遊んでばかりいよう!
◆分からない問題を考えるの面倒だから、答えだけ教えてもらおう!

上に書いたことは自分が大切だから・・・なんでしょうか???
上に書いたような人が周りにいたらどう思いますか?

◆挨拶がきちんとできている
◆バスや電車で疲れていたけど、お年寄りがいたので席を譲った
◆楽しいゲームがあるけど、他の人もやりたそうだから貸した
◆勉強や宿題をしてから自分の好きなことをした
◆分からない問題は難しいけれど、まずは何回も読んで考えてみよう

上に書いたことは、人によっては面倒だったり逃げたくなったり窮屈だと感じたりする人もいるかもしれません。でもそれを我慢して乗り越える力があれば、大人になってからも困難があった時に乗り越える力になります。そして上に書いたような人が皆さんだったら、能開の先生たち全員とても嬉しいですし更にみんなを応援してあげたくなります!

能開には色々な学年の生徒がいますが、本当の『自分を大切にする』ことは全員一緒です。皆さん自分を大切にしてくださいね。

新学年での初めての学校の定期テストを終えた人も多い時期ですね。
EXオープンも終わりました。結果や手ごたえはどうでしょうか。
「自信があるよ。よかったよ。」そんな声も聞こえてきそうですが、
同時に頑張ったのにうまくいかなかった人もいるでしょう。そして頑張ること自体出来なかった人も…。

成果や結果が出るこの瞬間に最大の学びがあります。
できなかった問題を復習することはとても大切ですが、もっと学ぶべきは何か。
先生は、できない自分、うまくいかない自分、現実をしっかり受け入れることだと思います。

頑張ったのに家族や先生に責められてしまうこともあるでしょう。
多くの人はそろそろ少しずつ気づいているはずです。
「どうやら思ったより自分はすごくない。どうしようもないこともある。」

全然いいじゃないですか。変えていける自分を知るのです。
どうしようもないことを知っているから、どうにかしようのあることに気づく。
自分に期待していない人にチャンスはめぐってはきません。

返ってくる結果には素直に反省して、さあ、次へ!
頑張りましょう。

大事なボールペンをなくした。いつもしまってある抽斗の中をくまなく探したが、ない。用事の時間が迫ってきたので、諦めて後にしようとした。
あ、あった。
使っていたときに電話にでて、そのままだったのだ。人の記憶はあてにならない。

さて、オープン模試が近づいてきました。皆さんがこの朝礼を読んでいるころには、直前の可能性も高いので、当日の話をします。

「終わりの合図とともにやり方を思いついた。あと少し時間があれば…」といった経験はありませんか。
しかし、「あと何分あってもできません」
思いついたのは、時間が理由ではないからです。問題を解くには集中します。しかし、集中しすぎると視野が狭くなります。そして、その視野を広げてくれたのが、「終わりの合図」だったのです。

「視野が狭くなっているな」と感じたら、一旦全体を見渡してみてください。一気に解決へ進めるかもしれません。

わかっていながら、ボールペンを探すのに苦戦した私が言うのもなんですが…。

皆さんは夢を見ますか?記憶に残る夢はめったに見ないというほどぐっすりと眠れている人もいるかもしれませんね。

さて、皆さんの夢に宇宙人とか外国人とかが登場することはありますか?その人や宇宙人は何語で話をしていますか?たぶん、日本語で話をしているのではないでしょうか?それくらい、母国語で考えて感じているものなのです。

言葉とは面白いもので、同じ意味であっても日本語と英語ではイメージが変わってきます。

日本語で「調子はどうですか?」と問われたら「まあまあですね。」と答えるイメージですが英語で「How are you going today?」と問われたら「Very good!」と答えてしまいます。中国語では「吃了吗?」(飯食ったか、元気ですかという意味)と問われたら「吃了、吃了」(食った食った、元気だよ)と答えます。言語が持つ文化の違いや勢いなどの違いを感じます。

これから進化が続くと「自動翻訳機」のようなものが外国語を学ぶ必要がないレベルにまでなりそうな気がしますが、各言語が持つ独特なものは感じられないのではないかと思います。間違ってもいいから、他国の言語で他国の文化を感じることの面白さを知ってほしいと思います。

あるとき、ある友人と話をしていて「へぇ~」と思ったことがありました。

友人:1から10まで言ってみて
先生:いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう
友人:じゃ、次は10から1まで言ってみて
先生:じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ご、よん、さん、に、いち
友人:何かに気づいた?
先生:この年齢になって大声で数を数えるのは恥ずかしいってことに気づいた
友人:いや、そうじゃなくて、‘し’が‘よん’で‘しち’が‘なな’に。。。
先生:え。。。? あ、ホントだ!
友人:これ、ほとんどの人がそうなんだよね(ニヤリ)

どうせ自分の発見ではなく、誰かから聞いたネタのくせにやたらと得意気なその友人の態度に苛立ちながらも、心の中では「俺は半世紀もの間、これに気づかず生きてきたのか!」という衝撃と動揺がしばらく渦巻いていました。

そして今度は自分が誰かにこれを仕掛けてみたくなり、次の日に職場で同僚に試してみました。しかし、その同僚はこのネタを知っていたようで、「いち、に、さん、よんっ、ご、ろく、ななっ、はち、きゅう、じゅう」と‘よん’と‘なな’を強めに言い、おまけにニヤリと笑って返したのです。その瞬間、普段は使わないように心がけ、生徒たちにも禁じている言葉が思わず口から出てしまいました。

「ウザっ!」

そりゃ、この場面にこれ以上に相応しい言葉はないし使いたくもなるわ。「ウザい」って言葉、侮れない。この言葉を使いたがるキミたちに強く心から共感できたので、その瞬間の先生の何とも言えない感情にもぜひ共感してほしいものです。

さて、この「うざい」という言葉は「うざったい」という、今はほぼ全ての国語辞典にも載っている言葉から派生しているようです。そして、その「うざったい」も元々はある地域の方言だったものが、いつしか全国区になったということのようです。「うざい」も、将来どの辞書でも見られるようになるかもしれませんね。

言葉はいろいろ調べてみるととっても興味深いものです。例えば、最近よく聞く「ウイルス」や「ワクチン」という言葉。英語で「ウイルス」は [ virus ]、「ワクチン」は [ vaccine ] です。どちらも [ v ] で始まり、あえてカタカナなら「ヴァイラス」「ヴァクスィーン」。これらがなぜ、にごりもしないア行とワ行の発音になってカタカナ語として定着したのでしょうか。英語を専攻して学んでいた学生の頃から非常に不思議でしたが、よく調べてみると語源であるラテン語で [ v ] を使うと「ワ・ウィ・ウゥ・ウェ・ウォ」のような発音をすると最近知ることになり、ようやく四半世紀に渡る疑問が解けたのです。

最近は言い訳や何かができない理由として「コロナだから」「コロナ禍なので」などをまるで流行語のようによく耳にしますが、そんな言葉で簡単に片付けたり、ネガティヴになってただやられっ放しになることなく、今回の [ virus ] [ vaccine ] のように「コロナがきっかけで」知識を得ることだってできるのだとポジティヴにやり返す強い気持ちも持つべきですね。

キミたちにも強い気持ちで前を向き、折れることなく様々なことを吸収して成長していってほしいと強く願い、ずっと応援しています。言葉は変わっていっても、気持ちは変わることなく。

入社時の条件に「子どもの頃にお手伝いをしていたか?」がある会社があることをこの前知りました。びっくりですね。この会社、入社してくる人にある程度の割合で「使えない人」がいて、その人たちの共通点を調べたら、何と「使えない」と言われている人たちは、みんな子どもの時に家のお手伝いをしていなかったことがわかったそうです。

子どもの時のお手伝い経験が、大人になったときの「仕事をする力」を育てるのですね。それが分かった時点から、その会社は子どもの時に親の手伝いをしたことのない人間は採用しなくなったそうです。

お手伝い(掃除、洗濯、買い物、調理、後片付け)は、親から家庭内の仕事の一部を指示されて任されます。その過程でコミュニケーションする力、段取りする力、計画する力、問題を解決する力、最後までやり遂げる力などが自然に身につきます。

ゴールデンウイークももうすぐです。今年はお家時間が増えるはず。社会に出たときのためにも、みなさんもお手伝いに精を出してみてはどうでしょうか?