これは、実際に今年の1月に中3の受験生に話した内容です。小学生の皆さんには少し難しいかもしれませんが、がんばって読んでみてください。
今日は、皆さんに歴史の話をしたいと思います。「いきなり何の話が始まるのかな?」と思う人もいるかもしれませんが、「落ち」も考えてありますので、がんばって聴いてください。
時は今から245年前、明治元年のことです。戊辰(ぼしん)戦争という言葉を中学生以上の人なら知っていると思います。
社会の授業で勉強しましたよね!ね、○○君・・・そう江戸幕府から明治政府に政権が移っていくときにおこった旧幕府軍と新政府軍の戦いでした。鳥羽・伏見の戦い(京都)から始まり、五稜郭の戦い(函館)まで本州を北上しながら戦いを続け、結果…新政府による国内統一が実現するといった内容でした。
さあ・・・中学生の皆さん、ここまでの知識は大丈夫ですよね!
ところで、この戦争の中で最も激しかったのが、会津藩(あいづはん=今の福島県会津若松市)との戦いです。なぜかというと・・・会津藩は新政府軍から目のかたきにされていたからです。幕府から藩主(藩の一番えらい人のこと=大名)が京都守護職に任命され、配下に新撰組を置いて、長州藩を中心とする倒幕側の人々を取り締まっていたからです。(有名なものとして池田屋事件があります。)会津藩は赦免嘆願書(しゃめんたんがんしょ・・・新政府にしたがいますから、これまでのことは許してくださいという内容の書面。)を新政府軍に出しますが、認められず戦争になってしまいます。このとき新政府軍の圧倒的な戦力に対抗するために会津藩につくられたものの一つが白虎隊なのです。白虎隊は16歳から17歳の武家の子どもで組織され、旧式の装備で戦います。そして、最後には自刃(みずから命をたつこと)するという、壮絶な最後を迎えます。この白虎隊のように会津藩では老若男女をとはず、多くの人がこの戦いで死んでいきました。
さて、先生の話はここからが本題です。この幕末から明治期にとても悲惨な運命をおくった会津藩にあって、藩主が京都守護職に任命されたときから、このような結末になることを憂(うれ)い、一人このような事態にならないように孤軍奮闘していた人物がいます。これが西郷頼母(さいごうたのも)という人です。藩主に京都守護職の辞退を、仲間の藩士には京都からの帰国を進言し、それを受け入れられず家老職を解任され、蟄居(ちっきょ=何があっても家からでるなという刑罰)させられます。再び家老職についてからも、新政府への恭順(つつしんでしたがうこと)を戦争中も唱え続けたため、仲間から暗殺されそうになる。(しかし、暗殺を命じられた者は、頼母を逃している。・・・なお、この間に頼母の母や妻子は自分たちが戦争の足手まといにならないように自害してしまう。)そして、故郷を追われた頼母は五稜郭の戦いに参加し、そこでも新政府軍への降伏を仲間に説いている。この頼母がとった行動はすべて自分のためではなく、一人でも多くの人の命を救いたいという思いであったと思う。その後、頼母は明治政府から罪を許され、塾の先生や神社の宮司をして、政治活動にも参加しながら明治36年、74歳の生涯を閉じる。
皆さんは、この頼母の生き方に何を学びますか。
先生は・・・この人のから「心の強さ」を学びました。時代の波に押し流される環境にありながら、また、想像を絶する悲劇がありながら、それでも信念を貫き通す強さを感じました。この戊辰戦争の後、日本国内では大きな戦いはおこっていません。まさに「至誠天に通ず(しせいてんにつうず=まごころをもって接すれば、それは 天まで通じて、必ず人を動かすものだ。 孟子の言葉」だと思います。受験生の皆さん、心を強く持ってください。そして、真心(将来世の中のために役立つぞ!)と思ってこの入試にチャレンジしなさい。至誠は天に通じます。夢をもって、希望をもって日々努力しなさい。その先に道は開けます。
今日の先生の話は以上になります。